20220101  新年のご挨拶

                           東京青木会会長 櫻田喜貢穗

 

東京青木会の皆様、青木村の皆様、本HPの読者の皆様

 

明けましておめでとうございます。

 

 新型コロナ感染症は、昨年の秋ころから収束の兆しが見られるようになりましたが、オ

ミクロンなる新顔の登場もあり、警戒を緩められない状況で新年を迎えました。コロナ禍

は長引いており、多くの方が不安やストレスを抱えていらっしゃるものと思いますが、何

はともあれ、新年を迎えることができましたので、まずはそのことを皆様とともに慶びた

いと存じます。

 

今年の東京青木会の活動ですが、コロナ感染症の収束状況を確認しながら、6月に2年

振りの「総会・青木村出身者の集う会」を開催する予定でおります。それに向けて、1月

末か2月初旬に理事会を開催し、3月には開催の可否の最終確認をいたします。開催が決

まれば、4月以降は役員が総力をあげて準備に取り掛かることになります。

まだまだコロナウィルスとの闘いは続きますが、英知を結集し、一日も早くコロナ禍を

収束させ、みんなで安心して集まれる社会環境を取り戻しましょう。そして、2年振りに

総会でお会いしましょう。

 

ところで、大法寺の参道・境内で青木村「竹灯りの会」が1月3日まで「冬のホタル」

というタイトルのイベントを開催しており、そのスナップ写真を上野光彦さん(38年卒 

殿戸)から送ってもらいました。皆様のご健康とご多幸をお祈りしつつ、青木村の「冬の

ホタル」をお届けいたします。

 

今年一年、元気に過ごしてまいりましょう。

20211231 岩淵さんから大晦日の便りをいただきました。

「青木村の大晦日は積雪7センチで、正午の気温は氷点下2.6℃と寒い真冬日となっています。昨日は雪の中、大法寺の竹灯籠〈冬ボタル〉を見てきました」

 

 岩淵さん、今年も大変ありがとうございました。また来年もよろしくお願いいたします。

20211225 青木村出身の芸能人 MOROHA(モロハ)が若者の間で大人気!

少し前のことですが、友人からユニークなラップで最近若者の間で大人気というMOROHA モロハ(青木村出身)がテレビに出ていたと教えてもらいました。TBSに出演していたそうです。テレビ番組を追ってみると、その時の記録がありました。

12月4日「FIRST TAKEで話題となっているユニット・MOROHAを紹介。MOROHAは来年2月に、初の武道館単独公演を予定している。MOROHAにインタビュー。MOROHAの2人は長野県青木村の出身で、アフロは野球部の補欠、UKは軽音部のスターだった」

MOROHAはアフロとUKの2人組のグループ名で、アフロは青木村出身の滝原優斗君、UKは上田市真田出身の清水勇輝君で、2人は上田染谷が丘高校の同級生、2008年にコンビを結成。もはやウィキペディアにも掲載される有名なグループ(←リンクで、「UKのアコースティックギター1本をバックに、アフロのメッセージ色の強い語り(ラップ)が特徴」と紹介されています。2010年に世に出て、テレビや映画の主題歌や挿入歌、テレビのCM、ラジオ、YouTubeなどで大活躍しています。

彼らのオフィシャル・サイト(←リンクで、過去の主な活動内容や、来年2月11日の武道館公演の案内を見ることが出来ます。

YouTubeから代表作の一曲「革命」等(←リンク聴いてみてください。その若者向けのメッセージを感じてみてください。ついていけないかもしれないですが、現代の若者の心に響くというラップを聴いてみましょう。 IT広報担当宮原(ブログ投稿したものです)

                          左がアフロ、 右がUK,     武道館で(公式サイトから)

 

 

20211223 国際基督教大学(ICU)の「園丁 宮澤吉春」について

 

 第一報は11月11日「紅葉の見頃を迎えた青木村からの便り」と同日に、岩淵登喜夫さんから国際基督教大学の同窓会誌(ICU Alumni 

News)に青木村出身の宮澤吉春さんのことが掲載されているので、調べてもらいたいというメールでした。添付のNewsの写真には四角の囲みの中に「竹倉征祠氏(ICU卒、上田市真田町在住)から情報提供いただきました」とメモがあるだけで手掛かりがなく、(私事ですが)2年前に亡くなった義母の家の整理やその三回忌法要のために九州まで2回往復するなど多忙を極め、本件については何もしないまま2週間が過ぎてしまいました。

 

 11月末には岩淵さんから、宮澤吉春さんの生家にいる吉春さんの甥(93歳)にお会いしたという追加情報もあり、さてどうしたものかと(自分のICU卒の友人の伝手を頼ってみようかと)考えていた矢先の12月1日に、全く別の筋からの情報で竹倉様のメルアドを入手、早速メールを差し上げました。自分の伝手では少なくとも1か月、場合によっては2~3か月はかかると覚悟していたのに、竹倉様から直ぐに返信をいただき、元はと言えば過日竹倉様が青木村役場に北村村長を訪ねて情報提供されたことや、それが岩淵さんを通して当方に回ってきたことを知るとともに、この記事の執筆者であるICU図書館の松山龍彦様をたった一昼夜の内に紹介いただき、翌日には松山様と近々にお会いできることとなり、とんとん拍子に話が進みました。そして12月16日にICU(東京都三鷹市)に松山様を訪ねました。

 

 ICU Alumni News の「園丁 宮澤吉春」については、別添写真をご覧ください。縁あってICUに奉職された吉春さんの誠実な人柄と勤勉な仕事ぶりが記載されおり、またそこには吉春さんの生まれた長野県小県郡青木村のことが紹介されています。ここには、吉春さんのことを「石碑に刻まれた男」として書き始められていますが、サンフランシスコ講和条約によって日本が主権回復した1952(昭和27)年、松の記念植樹をした「平和記念 1952」の石碑の裏面に秩父宮妃勢津子様、東ケ崎理事長、鵜沢評議員会議長、湯浅学長の4人の大学中枢のお歴々の御名の左側に「園丁 宮澤吉春」の名前が刻まれていることが紹介されています。そして、そこに吉春さんの名前が刻まれた理由について、湯浅八郎初代学長の吉春さんに対する心温まる賛辞が紹介されています。

 

 松山様からお話をお聞きし、図書館の前庭の石碑を見学し、また吉春さんが住んでいたキャンパス内の泰山荘を案内いただきながら、筆者は50数年前の1968~69年(大学1~2年生の時)に尋ねたことのあるICUの、ゴルフ場のある(現在は都立野川公園)広大で隅々まで手入れの行き届いた庭園のような美しいキャンパスと、(その当時は知らなかったけれど)青木村出身の吉春さんが手入れされていた樹木や草花を心に描きながら、あの時代にあるいは米国政府の助成金や日米の裕福な篤志家の寄付により運営されているリッチな大学と言うイメージのままに帰宅し、その日松山様から寄贈された2冊の書籍を2日間かけて熟読しました。武田(旧姓・長)清子先生著「湯浅八郎と二十世紀」と「国際基督教大学創立史(明日の大学へのヴィジョン)」(1945~63年)です。それを読みながら、自分の抱いていたICUに対するイメージは偏見に満ちたものであり、それは昔誰かが訳知り顔に言っていたことを間違って固定観念化していたものでした。大学を開学するには関係する人々が一丸となって並々ならぬ努力をしなければ実現できないこと、ICUの高邁な理念を支えたのが一部の金持ちの寄付金ではなく、(いくら高額でも意図のありそうな寄付金の申し出はお断りして)善意の人々の浄財を広く集めて大学が始められたことを知りました。

 

 大学は開学の理念、教育方針を打ち立て、それに沿った具体的なカリキュラム・教授陣を充実させるとともに、キャンパス内の環境整備(校舎・教室の設備、図書館、大学職員や学生の宿舎等々)を同時にしなければならないのですが、創立して最初の学生が入学し卒業までが特に大変です。ICUの場合は1950(昭和30)年に創立、53年に初めての1年生が入学、57年に卒業ですから、湯浅八郎初代学長(在職1950~1960)をはじめとする初期の方々のご苦労は並大抵なものでなかったことを知りました。本質的な問題ではないはずですが、初期の卒業生の就職先も世間の大学評価のメルクマールなのかもしれません。そのような中、創立時に集まった少数の人々で形成されたプロジェクト・チームの結束が成否を分けることになったと思います。管理業務の中心は細木盛枝氏でした。この方は吉春さんのICUでの25年間ずっと上司でした。吉春さんは湯浅学長とともに最も身近な細木管理部長に理解され、また支えられ、吉春さんもそれに応えて、与えられた任務を日々誠実に行ってきたのだと、「ICUファミリー」の良き人間関係を想起せずにはいられません。50年に大学が創立され、52年の石碑建立の時に「園丁 宮澤吉春」と石碑に名前が刻まれるまでの2年はいかにも年数が短いと最初は思ったのですが、創立時の苦難を乗り越えたチームの結束の強さや団結力を思うと、お互いの人品骨柄を知り信頼関係を築き上げるのに必要なのは、単に過ごした年数の長さではないと、そして濃密で充実した時間を共有されたチームのことを知り、自分のつまらぬ疑問も氷解しました。

 

 湯浅学長の人となりについてはNewsの文中にも紹介されていますし、業績等について関心のある方はネット等で情報を得ることができます。細木氏が吉春さんについて語ったことはNews内に記述されていますが、ここでは一般にあまり知られていない細木氏とはどのような人物であったか、上記の2冊の書籍や松山様からお聞きしたことをもとに紹介します。細木氏は吉春さんの9歳年上で、1892(明治25)年に高知県の農家に生まれ、東京帝国大学を卒業後に東京市社会局住宅部長として関東大震災後の同潤会アパートの計画実行を担ったそうです。上海で終戦を迎え、47年に引き揚げ、後に同郷の山本忠興氏(東京女子大学学長、前早稲田大学工学部長、ICU設立の実行委員長、献身的なプロテスタント信徒)によりICUの土地・建物計画担当者として抜擢されました。元農家と言う来歴と穏やかな人柄で、大学創立準備中に三鷹の元農民たちとの土地売買交渉や農林省と許認可の折衝をこなしたそうです。ICUでは管理部長として羽鳥又男氏や吉春さんとキャンパスの建物・土地・植栽・営繕を支え続けました。当初は鎌倉の自宅から三鷹まで通ったそうですが、設立後はキャンパス内の泰山荘敷地内の宮澤一家の隣に住んだそうです。吉春さんの死の9年後の1984(昭和59)年10月没、大学食堂前に記念石碑があるそうですが、ICU同窓会に「湯浅・細木記念奨学金」と細木氏の名を冠せられた奨学金制度があり、また「細木マジック」という手品のパフォーマンスをたびたび披露し人気を博したというエピソードからも学生とも近く、キャンパス・ライフを重視する「ICUファミリー」のムードメーカー的な存在で、「縁の下の力持ち」的に大学の運営において極めて貢献度の高い方だったことがうかがわれます。この細木氏は四半世紀もの間、吉春さんの上司であり隣人であり、吉春さんの仕事ぶりも性格も家族のことも一番よくご存じだったと思われます。そのために吉春さんは60歳で定年退職後も1年度毎に非常勤採用で仕事を続け、最後に吉春さんは癌で余命いくばくもないと宣告されていた(2月29日の診断書では右頸部腫瘍)にもかかわらず、最後まで大学が面倒を見ると1975(昭和50)年4月1日に翌年3月末まで採用契約を延長されたそうです。それが最後の採用契約となりましたが、吉春さんはその年の9月5日に杏林大病院で死去、享年75歳、9月7日に泰山荘で葬儀が執り行われました。

 

 さて、最後に宮澤吉春さんの子孫のことについて書きます。吉春さんと花志さん(旧姓上原)夫妻の間には4人の娘がいました。ICUの松山様が大学近くの三鷹市在住の長女・初江さん宅を訪ねた時は、初江さんと夫も既に他界されており、ただ遺影を入手し、入間の宮澤家の墓地を参拝されたそうです。その残された家族によると、他の縁者への連絡は出来そうもありませんでした。一方、青木村で岩淵さんが吉春さんの生家や妻・花志さんの実家から、次女・豊子さん、三女・幸子さん、四女・恵子さんのことを聞き、現在どのようになっているかが判明しました。次女と四女は2年ほど前に相次いで他界され、三女(90歳)が一人、群馬県内ご存命であり、子供さん(吉春さんの孫)やその子供(同じく曾孫)がおられることが分かりました。早速、岩淵さんに教えてもらった電話番号に掛けて、吉春さんの孫(60歳)と話すことが出来ました。

 

 46年前に祖父・吉春さんが亡くなった時(中学生の時)に、「ICU泰山荘で営まれた葬儀に出席したことを憶えており、母から祖父・宮澤吉春について断片的に聞いてはいるが限定された情報で、今回のICU Alumni Newsのように、このように祖父の生前の仕事ぶりや生活ぶりなどをまとまった形で聞いり読んだりしたことがなかったので大変うれしく思います」とのことでした。「近いうちに(母が元気なうちに)母や子供達と一緒にICUキャンパスとキャンパス内の泰山荘を訪ねてみたい」とのことでした。ICU松山様も喜んでご案内くださるとのことですので、宮澤吉春さんの物語はまだ先に続きそうです。

 

 今回、宮澤吉春さんとICUに関する情報収集に対して絶大なご協力を賜りましたICU卒業生(OB)の竹倉征祠様、ICU図書館アーカイブスの松山龍彦様に厚く御礼申し上げます。                                                 

                                               (文責:宮原豊 20211223)

 

国際基督教大学(ICU)図書館ニュース (⇐リンク)

 添付の写真をマウス・左クリックで拡大して読むことが可能です。また、図書館ニュースにリンクし、ほぼ同文をデジタルで読むことができます。

*この2018年12月4日付け図書館ニュースに、今回のICU Alumni News は「(吉春さんが生まれた青木村は)律令時代の七道の一つ『東山道』が村内を通っていたため、この地方には都の情報がいち早く伝わっていました。正義と反骨に富んだ精神は『青木村気質』と言われ、この村から起こった百姓一揆は江戸時代から明治時代にかけて全国最多の5回を数えています。いわく『夕立と騒動は青木村から来る』。上田に近い里村の村人の間で語られるそんな気骨が、宮澤さんの一生を貫いていきます」と青木村の紹介文が追記されています。 

20211219 初雪の降った青木村から岩淵さんの便りです。

「18日は雪景色で、冬本番を迎え寒いです。17日夜から18日朝にかけて雨が雪に変わり、18日の朝は積雪1.5センチ、雪景色になりました。日中の気温も0度近くの真冬日で、19日朝の気温は氷点下8度と本格的な冬に突入しました。大法寺では”青木村竹灯(あかり)の会」が18日に竹灯籠を設置しました。竹灯篭は今年二年目ですが、この冬は”冬ボタル”と題して、ホタルの住む青木村の環境の厳かな静けさを表現し、12月28日から1月3日まで灯りをともすそうです」

 

関東もここ数日は快晴が続いていますが、夜間から朝は冷え込みが厳しいです。今日は一段と冷え込み、太陽の光が眩しいほどに注いでいるのですが、じっとしていると足元はじんじんと冷たいです。風邪を引かないように注意しましょう。

20211216 初冬の青木村から岩淵さんの便りです。

「青木村は朝晩の気温は氷点下3~4度で、朝起きると畑には霜柱が、また屋根には霜が降り、うっすらと雪が降ったように真っ白です。各家庭では野沢菜や大根漬けが終わりました。冬支度はほぼ終わり、枯れた野菜の葉や枝、落ち葉を燃やす煙があちこちで見られます」

 

岩渕さん、写真と便り、ありがとうございました。


20211202 岩淵登喜夫さんから初雪の便りです。

「長野県内は11月27日に季節風が強まって、青木村は初雪が降ったけれどちらつく程度でしたが、菅平では15cmの積雪となりました。朝晩は氷が張り、29日は2cmの厚さで、このところ毎日霜で真っ白な朝を迎えます。すっかり木の葉が落ちてしまいましたが、日中は小春日和となり、野沢菜漬けや大根漬けが真っ盛りです。納屋の窓には11月29日に霜花が咲きました。本格的な冬も間近に迫って、車のタイヤもスノータイヤに替えました」

 

岩淵さん、いつもありがとうございます。いよいよ寒い冬の到来ですね。風邪などひかないよう、またコロナに注意してお過ごしください。


20211123 岩淵さんから初氷の便りです。

「17日は初氷が張り、落葉や雑草に霜が降り、手がかじかむ寒さでした。紅葉が一部残る青木三山山麓です。夫神岳山麓が朝日に照らされてイチョウの木が浮かび上がって見えます。自宅の庭から撮影しました。

19日、子檀嶺岳では登山者が頂上230メートル下で遭難して、ヘリで救出されましたが、死亡が確認されるという事故がありました」

 

岩渕さん、いつも便りをありがとうございます。青木村も晩秋か初冬か、寒そうです。子檀嶺岳でどういう事故に遭ったのか分かりませんが、遭難は凍死でしょうか落下事故でしょうか?合掌。


20211111 岩淵さんから故郷の便りです。

「紅葉の見頃をむかえた青木村です。家の周りの葉が赤や黄に色づき錦秋を迎えましたが、10日から冷たい風が吹いて、庭には落ち葉が降り積もっています。青木三山の峯は落葉となりました。冬の味『野沢菜』の茎が大きくなり、収穫が来週あたりから本格的になります」

20211030 岩淵さんから季節の便りです。

 

「青木村は朝晩はめっきり寒くなり、ストーブをつけています。霜が3回も降り、青木三山は峰から紅葉が始まりました。菊が咲いて、ウメモドキが赤い実をつけています。今日は小春日和で、ハングライダーも飛んでいます」

 

岩淵さん、いつもありがとうございます。青木村景観カレンダー(2022年)は11月10日に頒布開始とお聞きました。岩淵さんも写真を応募するとお聞きしていました。頒布開始の前日9日に発表されるそうですが、当選の報を楽しみにしています。

20211019 青木村は、寒くなりました。

「北アルプスから銀秋に染まる紅葉が始まりましたが、17日高い山は雪が降り、18日朝は青木では気温4度まで下がり、寒くてコタツを出しました。田圃は冬支度の田おこしが行われています。菊が咲いて柿は葉が落ちて、ハナミズキの葉は赤く染まってきました」

 岩淵様、お便り有難うございました。今日は関東も寒く、北海道より気温が低く、11月末の気温だったそうです。風邪を引かないように暖かくしてお休みください。