本体のブログ「会員・読者との交流窓口」に投稿本文に付随する形で投稿された写真を、本体ブログ欄がいっぱいになり操作しにくくなってきたので当面の保管庫としてここに集約します。
コメント#90(1月5日)下地峰子さんのブログ投稿関連の写真です。下記の投稿本文と併せてご覧ください。
2021年11月09日に櫻田喜貢穂さんが投稿された
①山本虎雄顕彰碑と「青竹」のご紹介、
②山本虎雄さんのこと に関連した写真です。
櫻田喜貢穗 (火曜日, 09 11月 2021 19:24)
山本虎雄さんのこと
山本虎雄さんのことは、私は小学生のころから存じ上げていました。私の子どものころは共産党の村議会議員で、世間では「ヤマトラ」と呼ばれ、村内ばかりではなく多くの人たちから慕われていました。
私の父は終戦直後に青木村に教員として赴任してきて、22歳の若さで亀屋に婿に入った人ですが、師範学校を繰上げ卒業して海軍を志願し、死に損なった経緯から、少年を戦争に駆り立てた大人たちに対する不信感を拭えないでいたようでした。そのため、父は、不愛想でめったに大人をほめることはなく、子どもから見ても、生意気で気難しいやつであり、相当に煙たい存在でした。そんな父が敬意を払う数少ない大人の一人が山本虎雄さん、ヤマトラでした。
父や母やそのほかの大人たちから、山本虎雄さんがどういう人だったのか私にも次第に伝ってきます。子どもの私の頭には、虎雄さんという名前とともに、農民運動、共産党、活動家、山宣、民主化などという言葉が入ってきました。何が正しいのかを考え始めていたのでしょう。なんとなく共産党は怖いという感覚とともに、本当の歴史を知らないと馬鹿な大人になってしまうかもしれないという思いを強くしたことを覚えています。こうして、山本虎雄という存在は、主に父と母を通じて子どもの私の頭に入り込み、父母が敬意を払う対象として位置づけられていったように思います。
私の人生において再び山本虎雄さんが意識されたのは、東京で二男の政道さんと出会ったからです。虎雄さんの息子がゼンガクレンの活動家であるという情報は青木村で育っていた私の耳にも入っていましたが、それから十数年後に、司法試験の勉強会で偶然お会いしたのでした。政道さんとのかかわりについては、2015年2月に政道さんが亡くなられた際、旧ホームページ上の伝言板(現ホームページの「バックナンバー保管庫MMHB」)で書きましたので、ここでは省きますが、政道さんは、私にとっては優しくて穏やかで頼りになる同郷の先輩でした。しかし、世間的には反戦平和の闘士であり、人権派弁護士として著名でした。山本虎雄さんの遺伝子を色濃く受け継いでいたわけです。
惠子さんから贈っていただいた「青竹」を開きました。私は平成の初めに制作された「青木村誌」などを読んで、大正デモクラシーのころから「青木時報」という地域新聞があって、それが青木村の「義民・自立・反骨」の精神を育んできたことや山本虎雄さんを中心とした戦前の農民組合運動のこともある程度は承知しておりましたが、なんと今まで知らなかった事実を「青竹」の中の一文に発見しました。
「1940年からの7年間は収入役に就く。満蒙開拓団募集の文書を棚上げし応じないよう村長に進言した」とあります。
1940年(昭和15年)に、37歳で青木村の収入役に就任した山本虎雄さんは、当時の国策であった満蒙開拓団送出計画に逆らうことを村長に進言したというわけです。結果として、青木村は満蒙開拓団を送り出していないので、堀内正雄村長も虎雄さんに同調し、募集に応じないよう計らったのでしょう。これは、満蒙開拓団の歴史を学んでいる私にとって、極めて重大な事実です。青木村は満蒙開拓団を送り出さない数少ない村の一つですが、それはなぜなのか、意外にも明確にされてきていなかったからです。答えはいくつかあるでしょうが、一つの具体的な答えを見つけることができました。
櫻田喜貢穗 (火曜日, 09 11月 2021 19:17)
山本虎雄顕彰碑と「青竹」のご紹介
ことし5月、大法寺の三重塔の西脇に山本虎雄さんの顕彰碑が建立されました。
そして、顕彰碑建立を記念して、「青竹」というタイトルの冊子が発行されています。
山本虎雄さんの二男故山本政道さん(昭和33年卒)の奥様の惠子さんから「青竹」を贈っていただきました。「青竹」及び顕彰碑は本ページ上部の写真をご参照ください。
碑には、「昭和の義民 山本虎雄顕彰碑」と刻まれており、揮毫は北村政夫村長(昭和33年卒)です。
「青竹」ですが、お読みになりたい方は私か山本惠子さんにご連絡ください。頒価1,000円です。
山本惠子様 y-keiko@kf7.so-net.ne.jp
櫻田喜貢穗 sakura@sakurada-jimusho.com
03-3512-3562
090-2324-2663
コメント#89(1月3日)小林千修さんのブログ投稿関連写真です。奥多摩湖(小河内ダム)の写真です。
12月26日
皆様、間もなく2020年も過ぎようとしています。2020年は初めから新型コロナ感染により世界中が想像できない困難に見舞われました。コロナのお陰で時間が出来たので、私もこのホームページを立ち上げることが出来ました。技術的なことで大変にお世話になった尾和元会長の友人の南雲様に感謝申し上げます。そして、コロナ感染が一日も早く終息することをお祈りいたします。
さて、先日大変不思議なことがありました。夕方暗くなってから帰宅しましたら、自分の自動車のボンネットに1枚の紙が張り付いていました。運転中に風に飛ばされて張り付いたのでしょう。その紙を広げるとそこには瘤の着いたインドの牛2頭の絵が描かれていました。牛はインドでは神様です。また、2021年は干支では丑年です。これはよい兆候かと。そこで、この絵を使って新年の幸運を祈るカード(ハガキ大)を作成しました。2021年がかがやかしい素晴らしい年になりますよう、また皆様のご健康とご多幸をお祈りいたします。新年もよろしくお願いいたします。良い年をお迎えください。宮原豊
12月15日、夕方 自宅付近(埼玉県)から見た富士山です。夕方、太陽が西に沈み、富士山がシルエットとなります。頂上付近の雲に夕日が当たり、まるで山頂から火が噴き出ているように見えます。岩淵さんから送っていただいた「墨絵」のような雪の青木三山の写真、その15日は関東も冷え込み、また本日16日も寒いです。宮原豊
コメント#63(11月27日) 小林千修さんのブログ投稿関連の写真です。
1:日の出(私の家から)2:日の出(家の近くの武蔵野公園:撮影:水泳仲間)3紅葉(家の近くの野川公園:撮影:水泳仲間)
コメント#59(11月17日) 宮原豊によるブログ投稿関連写真です。
コメント#56(11月9日) 小林千修さんのブログ投稿関連の写真です。
コメント#55(10月29日)小林千修さんのブログ投稿文に関連の写真です。
#46(10月10日)小林千修さんのブログ投稿文の写真です。
家の庭に咲いていた沈丁花の写真で、7年前に撮った春の花だそうです。10月7日の松田さんの「秋の金木犀」と同様に「春の沈丁花」も三大香水に使われる花だそうです。
10月7日、松田隆子さんからのメッセージです。
酷暑を乗り越え安堵しております。皆さんはいかがお過ごしですか?
前回8月11日にここにアップした朝顔はすっかり季節外れになりました。季節が変わって、今はキンモクセイが満開になっています。
9月24日 小林千修さんからブログ投稿がありました。コメント#45に添付する写真をお送りいただきました。写真は、こちらをご覧ください。
8月26日に小林千修さんからブログ投稿がありました。青木三山の話から、皇居近くのホテルに泊まった話でしたが、その時の写真を送ってもらいました。東京駅からパレスホテルの写真ですが、コロナ禍で心も身体もシュリンクしがちな中で、それを忘れさせるような爽快な時間を過ごされたことが分かります。
新型コロナ感染の騒動が一日も早く終息し、東京青木会の活動も安心して開けるようになり、気兼ねなく「三密」する日の来ることを祈ります。
8月11日の松田隆子さんからブログ投稿とともに送っていただいた「庭に満開の朝顔」の写真です。
「玄関のドアを開けると目に飛び込んでくる位置に、朝顔の棚を作りました。6時頃には半分開きかけ、時間とともにいっぱいに開き、すっかり目が覚めます。これで一日分のエネルギーをもらっています」
なお、熊谷市の保持している史上最高気温は、41.1度だそうです。訂正いたします。
以上、松田さんのコメントでした。
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