20210307 岩淵登喜夫さんから「宝暦義民祭」について投稿いただきました。

 長文の報告でしたので、本文と写真を合わせて次のように編集しました。

 

 東京青木会でも、「故郷を巡る旅」で史跡を訪問、また「故郷の歴史同好会」でも取り上げました。

 諸活動「バックナンバー」に掲載していますので参照ください。

 

 

夫神宝暦義民祭が行われました。

 

(1)3月7日夫神公民館で青木村村長、青木村義民顕彰会、夫神・細谷区長をはじめ関係者20数名が参列して実施された。

 

 夫神神社長挨拶                 

 

今から258年前、江戸時代中期の宝暦11年12月11日夜に農民たちを先導して、当時の上田藩に年貢の減免などを訴え出た百姓一揆(宝暦騒動)、すなわち領民に対する厳しい取り立てに苦しむ藩政に反感を抱いた領民が起こした一揆のであり、この指導者・首謀者が夫神村庄屋 西戸太郎兵衛の指示により組頭 中沢浅之丞 百姓清水半平がおこしました。上田藩全体の農民を巻き込んだ大きな規模の一揆でありましたが、 その結果。この浅之丞と半平の二人が首謀者として実行犯で捕らえられ、宝暦13年3月2日(1763年)に、千曲川河原で処刑されました。 当時の夫神村にとっては、まさに史上空前の大事件でありましたが、100年も経つと村人からの記憶が遠ざかり消えされました。ところが、没160年が過ぎた大正13年に義民の供養の声がおこり、夫神区民により「宝暦義民の碑」を庚申堂の前に建てられました。これを気に農民のため犠牲をいとわなかった「義民」に対する敬慕と顕彰の精神は一層深く夫神の人たちに浸透して、夫神区では庚申祭に合わせて義民祭を毎年続けています。この百姓一揆の首謀者で処刑や騒動に関わった人達の墓参り供養を通して、この顕彰が継続されることを願っています。

(2)お墓参り(宝暦上田騒動の関係者のお墓の説明)

 西戸太郎兵衛の墓

 夫神村の庄屋の家に生れ、54歳の時に凶作と重税に苦しむ農民を見て、自ら中心となって百姓一揆を起こした。この結果困窮にあえいでた農民を救った。一揆を企てた首謀者として捕らえられ、永牢を申しつけられて、(無期刑)21年間牢にて生き抜いた。その後出嶽し、7年後84歳で亡くなった。

しかし、当時の84歳は常人よりも長生きであり、この当時の牢嶽は長生きできる状況ではなかったので、太郎兵衛は騒動の後、自宅謹慎の座敷牢に入れられていた。と 西戸家の子孫は言っていました。座敷牢であれば長生きをしても不思議がない。

 中沢浅之丞の墓

 夫神村庄屋太郎兵衛と組頭浅之丞が半平を訪ね一揆の計画を打ち明け、顔役の百姓半平の協力で一揆の計画が練られた。浅之丞は太朗兵衛の指示に従って顔役の百姓半平を動かした。領内百姓一揆の火付け役として捕らわれて、宝暦13年に半平と共に千曲川原で処刑された。当時は36歳で妻と幼い子供4人と年老いた父親と未婚の兄もいる8人家族の大黒柱であった。

・辞世句 散る花は昔まことのならいかな 久和 

 中沢伝次郎(傳治良)の墓

 藩の役人がはじめて騒動関係者を召し捕りに夫神村を急襲したのは事件後2か月後の夜半とのこと。伝次郎、半平は連行されたが、伝次郎の罪は村の役所勘定(村の会計)の調査をしたところ多くの不正が見つかり、村でも算術に詳しい伝次郎が勘定役ほか3人選ばれて多額の不正が見つかった。しかし、庄屋や組頭は調査に当たった4人が騒動の首謀者である密告した。このため罪のないものが密告で捕らえられ入牢し、200日目に無罪が認められ釈放された。その一人が伝次郎である。夫神村の内部の複雑な事情があったのだろう。

 清水半平の墓

 庄屋太郎兵衛、組頭浅之丞から相談されて首謀者の中心的人物となった半平は59歳の時、騒動を起こした。宝暦11年12月11日夜「騒動に参加しない村は火をかけて焼き払ってしまうぞ」各村に大声でさけびまわった」半平と仲間たちと言われ、その結果、実行犯として捕らえられた。半平はこの騒動に対し、罪を自分一人で負うとし、彼の性格は「死に花を咲かせたい」と言う意識があったのか辞世句からと想像する。

  騒動から 二か月後捕らえられて宝暦13年3月2日千曲川原で浅之丞と共に処刑され62歳であった。

・辞世句として いざよく散るや此世の花吹雪 千甫

(3)石碑と庚申堂

義民の追悼句碑 小林武夫(ぶふ) 平成2年地元の俳人小林武夫 本名 小林武右衛門 明治17年生・「信に聞き義に散る花や蓮二輪 」これは昭和25年義民追悼俳句大会の選

 宝暦義民之碑

 没160年後 大正 134月夫神区建立 義民の追悼(ついとう)供養の声が上がり建立され「宝暦義民之碑」が 戸殿出身の小林直次郎県会議員の筆によるものである。

大正13年に義民の供養の声がおこり、夫神区民により「宝暦義民の碑」を庚申堂の前に建てられました。これを気に農民のため犠牲をいとわなかった「義民」に対する敬慕と顕彰の精神は一層深く夫神の人たちに浸透して、夫神区では庚申祭に合わせて義民祭を毎年続けています

 義民追悼句碑 栗林一石路(農夫 たみお)

 細谷出身の俳人 これは昭和25年義民追悼句会に寄せられた自筆の句を碑にした。

・「義民いまは神にして冬の山あり」

・「霜の菊の咲きいずるなおも一輪二輪」

 庚申堂(庚申様)

 この堂は元禄11年(1698年)に再建された70年後 明和5年に建て替え、それから更に60年後文政一部増築された記録がある。この中には青面金剛像が収められている。利益をもたらす福の神と言われる。

 お賽銭の中から種銭を借りて来て来年は2倍にして返す人がいる今もそんな習慣が残っている。また、家門繁栄・病魔退散などの十王像が安置されている。